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野村克也元監督の功績のまとめ

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元プロ野球選手でヤクルトや阪神、楽天で監督を務めた野村克也氏が2月11日、虚血性心不全のためお亡くなりになりました。往年84歳でした。

私は昔から根っからの巨人ファンで、打倒巨人に燃える野村監督はあまり好きではありませんでした。それでも監督としての力は見事なもので、低迷していたヤクルト、阪神、楽天と次々と強いチームへと導き、野村監督の代名詞でもある「ID野球」のもと名監督の名をほしいままにしてきました。

実際、アンチ巨人を貫いた野村監督が巨人の監督を務めることがあったのならと、非常に期待していたのも事実です。

そんな野村監督の数々の功績を紹介したいと思います。

野村監督の功績

生い立ち

野村克也(本名)は京都府竹野郡網野町(現京丹後市)で1935年6月29日に生まれました。

中学二年で野球部に入ると、すぐに4番で捕手に抜擢されました。中学卒業後は京都の峰山高校野球部に入部。家が貧しくバットを買ってもらえなかったので、海水を一升瓶に入れて素振りをしていたなんてエピソードがあります。

高校の野球部も弱小チームで野村監督も全くの無名選手でした。

そんな野村監督がプロ野球選手になれたのは、当時の野球部の顧問が手当たり次第にプロ野球の監督に推薦状を送っていたそうです。

そこで唯一返事をくれたのが南海の監督だったそうです。



野村克也現役時代

1954年にテスト生として南海ホークスに入団した野村克也。その時の契約金はゼロだったそうです。当時優勝争いを常にしていた強豪の南海ホークスでは、最初は出場機会はありませんでした。

努力が実を結んだのは、入団3年目の1956年。ハワイでの春季キャンプで1軍へ抜擢され、以後正捕手に定着しました。

1957年に自身初の本塁打王を獲得すると、1965年戦後初の3冠王に輝くなど南海ホークスの黄金時代に大きく貢献してきました。

1970年にはプレイングマネージャーとして選手兼監督として活躍します。のちにヤクルトスワローズで野村克也の教え子のひとり古田敦也もプレイングマネージャーとして活躍します。

1975年、史上2人目の600本塁打を達成

輝かしい選手時代を送っていたかのように見えたのですが、当時はセリーグ特に巨人人気が圧倒的でパリーグはほとんど注目されていない状況でした。

巨人には王、長嶋といったスター選手がいたからです。

有名なのがこの600本塁打を達成したときのインタビュー。この偉大な記録がかかっている試合にもかかわらず観客は7000人ほど。そこで野村は、「自分をこれまで支えてきたのは、王や長嶋がいてくれたからだと思う。彼らは常に、人の目の前で華々しい野球をやり、こっちは人の目のふれない場所で寂しくやってきた。悔しい思いもしたが、花の中にだってヒマワリもあれば、人目につかない所でひっそりと咲く月見草もある」と自分を日陰の月見草だと表現したのです。

その後ロッテ、西武へ移籍したのち1980年現役を引退しました。

引退を決意したエピソードも野村監督らしいので紹介しますね。

現役最後の年である1980年9月28日の阪急戦だったそうです。

捕手としてスタメン出場していた野村の西武は、点差で負けている状況でした。

味方打線が奮起し、8回の裏1死満塁にチャンスで野村の打席がまわってきました。

最低でも犠牲フライが打てると確信していた野村でしたが、なんと選手生活実働26年間で初の代打を送られてしまいます。

交代させられた野村は、代打策失敗を祈りその思惑通りショートゴロで併殺打という結果でした。そのとき「ざまあみろ」と思ったそうです。

チームの勝利とは逆のことを考えてしまった自分を悔い引退を決意したそうです。



ヤクルトスワローズ黄金時代

1990年、現役引退後解説者として活躍していた野村はクルトスワローズの監督に就任します。当時のヤクルトは優勝とは程遠い、万年Bクラスのチームでした。

そこから野村ヤクルトの快進撃は始まります。

まず野村監督は、データを重視するID野球を掲げ改革をしていきます。

それまでの日本野球は、監督の経験値や勘など目に見えないものを重視している風潮がありましたが、データを重んじて分析する新しい形を導入したのです。

その結果、当時チームの主力選手であった池山や広沢らは、名選手として活躍をしていきます。その一方でドラフト2位の古田らをレギュラーに抜擢するなど周囲からは不信感もでていました。

野村監督の改革が実を結ぶのは就任2年目の1991年。野村監督のもと早くも力をつけ始めた古田らを中心に、万年BクラスのヤクルトがAクラスの3位に躍進をします。

その後も着実に力をつけ、1992年にはリーグ優勝。1993年にはリーグ連覇そして日本一に輝きました。

翌年はいったん順位を落とすものの、1995年・1997年とリーグ優勝、日本一を成し遂げヤクルトの黄金時代を築き上げました。

野村阪神誕生

当時の阪神は低迷の真っただ中。1985年の日本一以降、優勝とは程遠くに位置するチーム状況でした。

そこで白羽の矢がったたのが野村監督です。阪神は例年生え抜き中心の監督人選だったこともあり、電撃的な監督就任劇でした。

阪神時代の野村監督の成績は芳しいものではありませんでした。

結局就任以来3年間ずっと最下位という成績でおわり、野村監督の時代は終わったように思われました。

楽天の監督就任

野村監督が阪神の監督を退任した4年後の2005年、パリーグに新球団楽天イーグルスが誕生しました。新球団で戦力も整わないチームは創立した初年度、借金59というさんざんな結果で最下位とうい順位でした。翌年の2006年、新チームの立て直しの重責を担って野村監督に白羽の矢がたちました。

野村楽天は、着実に力をつけ退任する2009年にはリーグ2位になるまでに成長しました。

その功績を認められ楽天の名誉監督となりました。

その後は、プロ野球球団の監督になることもなく、解説やタレントとして多くのメディアで活躍をし国民に愛される人物となっていきました。

野村監督のすごい年表

1954年

1956年

1957年

1959年

1962年

1965年

1970年

1973年

1975年

1980年

1990年

1992年

1993年

1998年

1999年

2001年

2006年

2009年

南海ホークスにテスト生として入団

レギュラーに定着

30本塁打で初の本塁打王のタイトル獲得

自身初のリーグ優勝、日本一

当時のパリーグ記録を抜く44本塁打を記録

戦後初の三冠王の輝く

プレイングマネージャーとして監督に就任

監督としてリーグ初優勝

史上2人目の600号本塁打を記録

西武、ロッテに移籍したのち通算出場試合数歴代1位など数々の記録を打ち立て現役引退

ヤクルトスワローズの監督に就任

ヤクルトで初のリーグ優勝

チーム初のリーグ連覇&日本一

ヤクルトスワローズの監督を退任

阪神タイガースの監督に就任

阪神タイガースの監督を退任

楽天イーグルスの監督に就任

レギュラーシーズン2位で球団史上初のクライマックスシリーズ出場。
この年限りで監督を退任し、名誉監督に就任

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